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平尾誠二の実家や生い立ちを解説!家族構成や妻との馴れ初めも!

ラグビー界のレジェンド・平尾誠二の実家はどこにあったのか、どんな家庭環境で育ったのか気になりませんか?

本記事では、中学校の通学区域や家族構成などの情報から、平尾誠二の生い立ちを丁寧に紐解いていきます。

当記事を読めば、京都市南区の一般家庭から世界的ラグビー選手へと成長した平尾誠二の知られざる半生を知ることができますよ!

平尾誠二の実家と生い立ち

平尾誠二の実家は京都市南区

「ミスター・ラグビー」として知られる平尾誠二さんの実家は、京都府京都市南区にありました。

平尾さんが通っていた中学校は京都市立陶化中学校(現在の凌風中学校)です。この中学校の通学区域から、平尾さんの実家の場所がわかります。

通学区域は上鳥羽勧進橋町や東九条地区などで、京都駅からそれほど遠くない場所だったようです。

場所的には京都の中心部から近く、観光で訪れる人たちが通り過ぎることもあるかもしれません。

平尾さんの実家は特別なお金持ちというわけではなく、一般的な家庭だったと考えられています。

その理由の一つは、私立ではなく公立中学校に通っていたことです。

京都の中心部ならば、私立の学校を選ぶこともできたはずですが、公立を選んだことから、普通の家庭環境だったことがうかがえるのです。

このように、ラグビー界のレジェンドとなった平尾誠二さんは、京都市南区の一般的な家庭で育ち、そこから世界へと羽ばたいていったのでした。

平尾誠二の家族構成

平尾誠二さんの実家の家族について調べてみると、父親と母親、そして平尾さん本人という小さな家族だったことがわかります。

平尾さんには兄弟姉妹の情報が見当たらないんです。これだけ情報がないということは、おそらく一人っ子だったのでしょう。

もし兄弟や姉妹がいたなら、平尾さんに関する本などで触れられていたはずですよね。

お父さんについての詳しい情報はあまり残っていません。

一般の方だったようです。

ただ、平尾さんがイギリスのリッチモンドに留学できたことを考えると、それなりに収入のあった家庭だったと考えられるでしょう。

平尾さんが闘病中だった時期にはお父さんの話が出てこないことから、すでに他界されていた可能性があります。

お母さんの名前は平尾信子(ひらお・のぶこ)さん。

平尾さんの長女によると「パワフルなおばあちゃん」だったそうですよ。

2014年に胃がんのため胃を全摘出され、その後2018年に亡くなりました。

平尾家には、母親の言葉で平尾さんの意識が戻ったという感動的なエピソードも残っています。

重体の平尾さんに向かって「あんた、どこへ行くんや?あの世か?あかん!」と力強く声をかけたところ、不思議なことに意識が戻り、その後退院できるまでに回復したんだとか。

このように、平尾誠二さんは小さな家族の中で育ち、両親からの愛情をたっぷり受けて成長したのでした。

平尾誠二の中学・高校時代

平尾誠二さんは小学校時代、野球少年だったんです。でも京都市立陶化中学校(現在の凌風中学校)に入学すると同時にラグビーを始めました。

なぜラグビーを選んだのか?平尾さん自身が語っていたところによると「野球部は部員が多くて下積みばかりしていた。

そこでラグビー部を見たら、12~13人程度、先生もとてもいい先生で楽しそうに練習をしていたから」だそうです。

中学時代の平尾さんには忘れられない思い出があります。父親にラグビースパイクが欲しいと伝えたところ、無理だと思っていたのに買ってもらえて、とても嬉しかったと語っていました。

テレビ番組「徹子の部屋」にゲスト出演した際には、この出来事を「ラグビー人生で一番嬉しかったこと」と表現したほどでした。

中学3年生の時、平尾さんは京都府秋季大会決勝戦に出場します。

そこで彼のプレーが伏見工業高校ラグビー部の監督・山口良治さんの目に留まったんですよ。

山口監督は平尾さんの家を訪ね、伏見工業高校への入学を誘いました。

ところが、平尾さんはすでに全国的にも名門とされる花園高校への特待生での入学が決まりかけていました。

当時の伏見工業高校は「ワルの集まり」として知られていたため、両親は反対。それでも平尾さんは両親の反対を振り切って伏見工業高校を選んだのです。

高校時代の平尾さんは輝かしい成績を残しました。

伏見工業高校2年で全国大会ベスト8、3年生の時には主将として全国制覇を成し遂げたのです。

このように、平尾誠二さんの中学・高校時代は、ラグビーとの出会いから始まり、自分の信じた道を進むことで大きな成功を収めていったのでした。

平尾誠二の実家から神戸の自宅へ

平尾誠二と妻の馴れ初め

平尾誠二さんと奥さんの恵子さんは1985年、お二人が23歳の時に出会いました。

どこでどのように知り合ったのかという詳しい馴れ初めについては公表されていないんです。

恵子さんは当時、沢近恵子(さわちかけいこ)という芸名で女優として活動していました。

テレビドラマ「人妻捜査官」や「兄弟拳バイクロッサー」などに出演し、JJのモデルもしていたそうですよ。

兵庫県神戸市の出身で、武庫川女子大学短期大学部を卒業後に女優の道に進んだようです。

平尾さんと恵子さんの交際が世間に知られるようになったのは、週刊誌に二人の写真が掲載されたことがきっかけでした。

平尾さんはプライベートなことを秘密にしておきたいタイプだったようですが、ラグビー界のスターと女優の熱愛は注目を集めてしまったのでしょうね。

恵子さんの家庭は「暗くなる前に帰宅しなければならない」という門限があったそうです。

また、お琴や馬術の経験もあることから、しっかりとしたしつけのもとで育ったことがうかがえます。

二人は3年間の交際を経て、1988年に結婚しました。恵子さんは女優の賀来千香子さんとは30年以上の親交があり、家族ぐるみの付き合いをしていたそうです。

このように、平尾誠二さんと恵子さんは、それぞれ輝かしい道を歩みながら出会い、深い絆で結ばれていったのでした。

平尾誠二の神戸市の自宅

平尾誠二さんは「ミスター・ラグビー」として多くの人に愛された後、神戸製鋼に入社して兵庫県神戸市で暮らしていました。

彼の自宅は兵庫県神戸市東灘区にある分譲地に建っていた洋風の一軒家です。

奥さんの恵子さんの出身地も神戸市だったので、二人にとって住みやすい場所だったのでしょうね。

平尾さんの自宅には、朝早く起きて庭でゴルフの素振りをするという習慣がありました。

そして素振りが終わると散歩に出かけることも多かったそうです。息子の昂大さんによると、「門がガランと開く音がしたら、それが散歩に行く合図でした」とのこと。

散歩のルートはいつも同じではなく、その日の気分で変わったようですよ。

ただし、近所の公園には必ず立ち寄って、息子さんとキャッチボールやパスの練習をすることもあったといいます。

また自宅では、平尾さんが料理を作ることもありました。

息子さんが小学生の頃に作ってもらったという「スパイシー・チャーハン」は、真っ黒な色をしていたけれど、とてもおいしかったと記憶に残っているそうです。

このように平尾誠二さんの神戸の自宅は、家族と過ごす大切な時間を育んできた、思い出がたくさん詰まった場所だったのです。

平尾誠二の子供たち

平尾誠二さんと恵子さんの間には2人の子供がいます。

長女の大塚早紀(おおつかさき)さんと長男の平尾昂大(ひらおこうた)さんです。

早紀さんは2015年にハワイで結婚式を挙げました。

その3ヶ月後に平尾さんががんと診断されると、早紀さんの夫が「お義母さんは心細いだろうし、お義父さんもきみがいれば助けになると思うから、一緒にいてあげて」と背中を押してくれたおかげで、早紀さんは父の看病に専念できたそうです。

闘病中の平尾さんに、早紀さんはハスミワクチンや丸山ワクチンの注射や点滴を打っていました。

「どれかが効いて父を救えるかもしれない」という思いで、病院でやり方を習い、表を作って管理していたんですよ。

平尾さんが亡くなる2日前、早紀さんは「赤ちゃんができたよ。パパはおじいちゃんになるんだよ」と報告しました。

すでに会話が難しい状態でしたが、平尾さんは「よかったね」と答えてくれたそうです。早紀さんには現在、お子さんが2人います。

長男の昂大さんは、小学校時代は野球、中学時代はバスケットボールをしていました。

高校1年生の時に少しだけラグビーを経験しましたが、その後はアメリカに7年間留学して経済や経営を学びました。現在は大手企業で営業職に就いているそうです。

父である平尾さんと同じスポーツに取り組むことについて、昂大さんは「プレッシャーを感じた」と語っています。

平尾さんは子どもたちに「どのスポーツをしろとか、ラグビーをやれとか、勉強しろとか、そういうことを絶対に言わない父親だった」そうで、自主性を尊重する教育方針だったようです。

このように、平尾誠二さんは子供たちの自主性を大切にしながら、あたたかい家庭を築いていたことがわかります。

そして今、その子供たちはそれぞれの道を歩みながら、父の思い出を大切にしているのです。

平尾誠二の実家や生い立ちを解説!家族構成や妻との馴れ初めも!:まとめ

「ミスター・ラグビー」として知られる平尾誠二の実家は京都市南区にあり、一般的な家庭環境で育った。

父親と母親・信子さんの3人家族だったとみられ、京都市立陶化中学校(現・凌風中学校)時代にラグビーと出会った。

高校は両親の反対を押し切り伏見工業を選択し、3年時には主将として全国制覇を果たした。

23歳で女優だった妻・恵子さんと出会い、1988年に結婚。

その後は神戸市東灘区の一軒家に居を構え、早朝の庭でのゴルフ素振りや散歩を日課としていた。

長女・早紀さんと長男・昂大さんの2人の子どもに恵まれ、自主性を尊重する教育方針で家族との時間を大切にした。